2025/07/26 00:49
「会社の倒産。初めて自分の力で生きる」
成人式の1週間前。
浅野家が代々営んできた町工場は、倒産した。
当時、僕は成人式を控えた19歳。
物心がついていたはずなのに、今振り返ってみても、その頃の記憶は不思議なほど薄れている。
一部は、都合よく消えてしまったのかもしれない。辛すぎる記憶というのは、意識の奥底に封じられるものだと、最近になって気づいた。
例えば、集金に来た業者に泣き落とされて、僕はお年玉と成人祝いでもらった大金を支払ったらしい。
そんなことも、最近になって母から聞いて、ようやく思い出したくらいだ。
それほどまでに、当時の記憶は断片的で、色も感情も抜け落ちている。
唯一、強く覚えているのは、仕出し弁当のこと。
会社倒産直前まで頼んでいたお弁当。
それを毎日、余分に2個(おかずのみ)注文して、祖父母・父母・僕・妹3人、8人で分け合って食べていた。
飽食の時代に、食べたいものが食べられない。飢えのような感覚を味わったのは、後にも先にも、あの頃だけ。
お弁当に、小さなうどんが入っている日があって、
その一杯を誰が食べるのか、兄弟でよく取り合いになったのを、今でもうっすら覚えている。
今思えば、それもまた、貴重な経験だったのかもしれない。
母方の祖父母から届いたお米や、ご近所さんがくれた野菜に助けられながら、僕たちはなんとか生きていた。
倒産後、それまで一度も外で働いたことがなかった母は、人生で初めて働きに出た。
父は、早朝に新聞配達。朝から昼はパン屋のバイト。午後は会社の残務処理。
そんな過酷なスケジュールを、休まずこなしていた。
ある日、父がパン屋で、二回り近く年下の店長に理不尽に怒鳴られ、悔し涙を流していたらしい。
この話も、僕がカンボジアへの渡航を決めた頃、妹から聞かされた。
当時、僕たち家族は、ただ「生きること」に必死だった。
いや、僕ら兄弟の何十倍も、何百倍も、両親は、もっと苦虫を噛み続けるような日々を生きていたのだろう。
婚約指輪など、売れるものはすべて売って、生活費に変えた。
(今の2人に残っているのは、きっと深い絆だけなのかもしれない。)
それでも逃げ出さなかった父と母は、本当に偉大だと、今では思う。
──つづく