2025/07/25 00:38

「何をしても挫折続きだった幼少時代」


僕は先祖代々続く町工場を営む両親の元に、長男として生まれた。
愛知県名古屋市の中でも、”ガラが悪い”と名古屋の中では言われる港区生まれ、だ。
「いつか佑介がこの工場の後を継ぐんだぞ」と言われ続け育った。両親はもとより、同居の祖父母にもとても、とても可愛がられていたことを今でも覚えているし、従業員の人たちにも末は社長と思われる僕を可愛がってくれ、その周囲の期待と愛情をうけて育ってきた。(と思われる)
しかし、水も肥料も与えすぎてしまうと綺麗な花も咲かないように、何かにのめりこむ、何かに夢中になる、そんなことができないもどかしさをずっと感じていた。なんで自分はいつもこうなんだ……と失笑も心の中であった。

空手、柔道、習字、エレクトーン、塾。習い事を初めても少しかじった程度で辞めてしまう。周りがギターを始めたから自分も始める、ただバンドを組むまでの努力をしない。自分が心から好きな事、何がやりたいかと言うことも分からず、周りが始めたから自分もやる。自分から何かを始めるという経験をした事がなかった。周りに同調し、自我を表にだすことはほぼなかった。それ以前に、自我という存在すら気づいてなかったのかもしれない。
衣食住に困ることなく、温かい家庭のなかで育ったのは間違いなく、それは幸せな空間だった。自分へのもどかしさを除けば、とてもとても恵まれた環境で僕は育っていった。

「会社の倒産。初めて自分の力で生きる」


そんな僕に神様は喝を入れようとしたのか、人生を変えるような事態が訪れる。

2001年9月11日。アメリカで同時多発テロが起きた。
その事件においての直接の被害はないのだが、同時多発テロが世界に与える影響は日本の父親の会社にも届いた。
連鎖倒産で父の会社までも倒産する事態に陥ってしまったのだ。

それはちょうど成人式直前の出来事だった。
人生はこんなにも簡単に変わるのだ、と言う教訓残して、あっという間の倒産劇だった。
広々とした家も、庭も、畑も失い、狭い家に引っ越すことになった。思い出が詰まった家は、あっけなく”僕ら”の家でなくなってしまった。

“今でも夢で家族で談笑しているシーンがでてくると、まだあの家にいる”くらい、僕は今思い返しても、あの家が大好きだった。

そこから暗黒の時間が流れていくことになる。
8人家族(祖父母、父母、4人兄妹)で会社でとっている仕出し弁当2個を分ける日々がやってくる。

つづく